2020年 01月 27日
昨日好きだったことが今日も好き (1/27)
まだ家では寝てばかりだという息子は、明日から辛い治療が始まると言っていました。今まではどちらかというと辛さから逃げる期間で、明日からは辛さと向き合うのだそう。いつの頃からか、右腕肩を痛がり、マッサージを受けるとその時は良いのですが、元に戻ってしまう状態でした。駅前の安いマッサージを受けていくと、都会の雑踏の中に消えて行きました。頼まれ物は渡したけれど、代わりに返す本をどっさり持たされました。
昨日のファーチレは、ソリストが2人来てくれました。今年に入ってようやく、せっかく2種類のCD💿を持っているので、ひたすら聴いています。瞬間瞬間には満足もし、自分を肯定し、達成感もありますが、結局はもっともっとと求めているんだろうな。今は練習が楽しくて仕方ありません。
頼まれたクリスマスペンダントを前回渡したら、上手く分けてくれたようで、昨日はお礼にとお菓子をいただきました。合唱が好きという以外では深入りしない(ファーチレの場合、名前すら知らない場合も多々ある)反面、その場にいることに心地よさを感じる時間であるのは、まぎれもなくそこに集う人たちのおかげなのです。
気持ちは満ち足りていても、モコモコに着ぶくれ、重い荷物を持ち、転ばないよう気を張って歩き、チョコレートの下見をして、帰りのペガサスに乗り込んだ時は、お約束のように右股関節が痛くて、疲労困憊でした。凍り付いたポルテちゃんを何とか運転し、ニャンコ座にたどり着いたら、猫はいないけれど、あったかくて嬉しかったです。ビバ、セントラルヒーティング。「関ジャム」で、玉城千春の「それだけで」という曲を知りました。
今日信じているものを 明日も信じていられたら わたしはそれをしあせと呼ぶのです
だって。そうだなぁと思います。今日好きなことを 明日も好きだったら 私はそれを幸せだと感じるでしょう。
息子にラインで、持ってってやった🍞の感想を求めたら「うまい」と書いてよこしたから「よろしい」と答えておきました。