2018年 04月 15日
歌を歌った~歌を歌った~ (4/15)
大学で一応音楽を勉強し、就職して、そこに合唱団があるのなら、入ってやっても良いよとまではうぬぼれてはいませんでしたが、どんなもんかね、位には思っていました。その時の団長さんは、学校にも関わりのある商売をしていて、職員室で、教頭先生がニコニコしながら、「この人、合唱団の団長さんだよ」と紹介してくれたパンチパーマの人が、事の始まりでした。
合唱団は思ったより、かなり上手でした。パンチパーマさんは、とっても優しく面倒見が良く、誰からも好かれる、そして転勤族ではない、団長にぴったりの人でした。飲み会の日などは、みんなまとめて団長家に泊まったりね。又、すばらしいバリトンで、「フォーレのレクイエムのリベラメ」のソロを歌いもしました。ピアニストと結婚しました。
今年のごちゃコンで歌う「明日があるさ」の、不肖わたくしニャンカイの替え歌「若い仲間が集まって 歌を歌った 幸せ感じてた」や「週に1度の練習日 なぜか気になるあの人が 誘ってみよう」などは、フィクションではないのです。
団長を次の人に引き継いでから、家業が忙しく、「仕事の責任重くなる 育児も家事も忙しい 歌う暇ない」も現実、何となく足が遠のいて行ったという感じだったのでしょう。40代半ばくらいで病に倒れ、その後遺症と闘う日々になりました。奥さんは、家業とピアノ教室とを切り盛りし、元団長を支え続けました。
同じ町に住んでいて、たまにスーパー等で奥さんにばったり会うことはありました。でも、去年から一段と病気が重くなっていたとのこと、知りませんでした。最近行ったお葬式の中では、久々に本気で泣けました。奥さん、良くがんばったね。
告別式で会った懐かしい面々と、今度はこういった場じゃない所で会いたいね・・・それはめったに実現しないことはわかっていますが、なんて事を言いながら、お別れしました。あっちの世界に、団長と一応指揮者のいっちゃんがそろったので、合唱団作っておいてください。後20~30年位経ったら、ぼちぼちそちらに行く人がいますから、ゆっくり待っててね。又一緒に歌いましょう。
写真は、昭和58年夏(私産前)と、59年春の演奏会(私産後)。この時は、もうパンチパーマではありません。