2013年 03月 26日
Self produce のお葬式 (3/26)
先日、合唱をした柴田さんの告別の会では、思うことが多々ありました。すぐに書きたかったのですが、いささか不謹慎な気もして、10日経った今日になりました。
つまり、日を改めてお葬式をするのは、とても良いことだと思ったのです。
もしも私が死んだら、いずれ必ず死にますが、すべてのことは基本的に息子に任せようとは思いますが、希望は伝えておきたいです。死んだらすぐに、法的な手続きを取って、問題無く処理してください。でも、もしもお葬式をしてくれるなら、都合の良い日を、後日設定してください。
来てほしい人の名簿は私が用意しておきます。宗教はいりません。プログラムも作っておきます。私の思い出話や業績を褒め称える(*^^)vスピーチを頼む人も、ピックアップしておきます。BGMも決めて、写真や、ライヴで歌っている動画なんかも用意しておきます。出席者の皆様へのごあいさつは、必ず録画しておきます。「みんな、今日は来てくれて、ありがとう。楽しんでね。」と言います。会場には、私愛用の品なんかを展示してね。なんちゃって短歌集をプリントして、「ご自由にお持ち帰りください」と書いておきます。
ご霊前はいりませんから、会費制にして、飲み食いしてください。私という、粗末で些細な存在によって出会えた人がいるのなら、そのことこそが私が生きた意味なのでしょう。ほら、こんなことを考えてみたら、なんとなく楽しみになってくるでしょう。でも、大きな問題点があります。私自身が参加できないことです。それはとても残念なことです。だから、本当は生前葬が良いのですが、お葬式をしてからもずっと長いこと生きていたら、ちょっとばつが悪いし。
そんなお葬式、誰が来るものかって?それ以前に、息子に任せますと言った舌の根はどうした?ですよね。いっちゃんのお葬式をこんな風にできていたら 、良かったのにね。でも今だから言えることではあるのだけど。息子は、おかんは最後まで好きな事言ってたよねと笑ってくれれば良い。
Self produceのお葬式の準備が出来上がるまで、私はたぶん死なないと思います。
「あの時期」考えすぎたのかもしれませんが
「もしもの時」に知らせるべき人をリスト化して姉に渡しましたが、それは支払い等も含めた仕事の責任上の問題がメインで、
それ以外に知らせたい人はごくごく限られていた事を改めて思い知って
「何だったんだろう俺の人生…」的な事を思いましたが
そうなると…火葬はあってもセレモニーは何もなくていいなぁと思いました
毎年、正月に家族で年に一度集まる時と同じにして、自分に関係ないバカ話しでもしてもらって
自分が座るべきところにipodでも置いてもらえば…らしいかなと。
セレモニーとかやられても誰も来ないし恥ずかしいし眠っていられません
ニャンカイさんの「みんな」という前提が自分と対照的で良いですね。
自分も社交性が無くもないですが「目立ちたがりでシャイな奴」というメンドクサイ人なので(笑)
toshixさん、おはようございます。
「あの時期」に、やはり考えましたか。私は逆に、あの時期は、そのことから徹底的に逃げていました。そんな事があってたまるかってね。だから「千の風になって」は、今でも大嫌いです。
セレモニーをしてもらいたいという訳ではないのです。でも、この間の告別の会が、とっても良かったのです。故人はこういう方だったのねと、改めて感じることができたという意味で。その場で又、新しい出会いもあったのです。そして、私たちは、又歌いましょうかと、プチ決起集会みたいなことになったりしたので。
目立ちたがりのシャイ、良いじゃないですか。
ありがとうございます。
気持ちに寄り添うコメント、ありがとうございます。
あなたという人に出会えた事、そしてこれからもおそらく、頻繁ではないかもしれませんが、こうしてどこかでつながっていられるのではないか、そんな風に思います。