2011年 08月 30日
母が旅立った暑い日 (8/30)
1年前の今日は、とても暑い日でした。わたしはまだ朝食前で、母の入院している病院から電話の「急変しました。」の言葉の歯切れが悪かったのが、後で考えると、亡くなったという意味であったのだと理解できます。
なぜこんな時に、まず朝ご飯食べなくちゃ、色々家の中のことやってしまわなくちゃと思ったのか、それも今考えると、落ち着かなくてはという気持ちだったのだと思います。
母の病院まで45分くらいかかります。どうしたって駆け付けるという形にはならないので、近い弟夫婦の所に電話をして、私のためになら、辛い心臓マッサージ等延命措置は断ってほしいと伝えるのが精いっぱいでした。
母とはすでに、コミュニケーションはとれなくなっていました。せめて、痛い、苦しいがありませんように。それだけを願っていました。でも当然目ざめていれば耳は聞こえているだろうし、いくら認知能力が落ちていても、私が話せばわかってくれていると思い、母のベッドサイドでは勝手にしゃべりまくっていました。私が母にやって上げたのは、爪切りと眉を整えるくらいでした。
母の最期の10年は、認知症と皮膚炎と肺炎を含む感染症との闘いでした。母は外面はおとなしい性格でしたが、本当は自分の考えをしっかり持っていました。私に夢を託しました。時にそれは、目に見えないプレッシャーになりました。それでも、私の性格形成の基本は、母にあります。だから表だってけんかはしませんが、反発も感じました。母の様にはなるまいと思う部分もありましたが、母に似ている所がたくさんあります。私は母が大好きでした。
弟の家に母を安置して、諸処の手続きのためにあちこち走り回った午後は、北海道にしては珍しいほどの残暑で、役場の駐車場に強い日差しの影がくっきりしていた光景が、思い出されます。
写真は、昭和31年7月。私は生後8カ月。24歳の母は若くてかわいいです。股関節脱臼の右足は、正常な左足に比べてブヨンとしていますね。
台風が北海道に接近中。3日には、スムーズに京都に行けるのでしょうか。心配しても仕方ないけど。
連絡があると気持ちは急いでるはずなのに
妙に落ち着いて物事を進めがちです。
私もそうでした。離れてるので次は生きてる母と会えないわかってましたけど。
私も行くと顔剃りをしてあげました。爪は姉が係り(笑)
「私は母が大好きでした」この言葉がすべてですね。
お母様はとても満足なさってると思います。私達もそう言ってもらえるのかしら。
「ぶっとんでる」も付けて(笑)
台風心配です。。
台風来てますね~。無事こちらに来れるように祈ってます。月曜日楽しみにしてます♪
そう、一緒でした。母も猫が好きだったので、喜んでいると思います。
この間ちょっとダリが調子悪かっただけで、世界が灰色に見えるほどでした。
台風、お願いだから、うまくそれて行ってください。