2012年 06月 08日
ひとりで暮らすこと (6/8)
図書館の棚から偶然手に取っただけの上坂冬子「女の生活力」ですが、いっちゃんにべったり依存して生きてきた私と、上坂さんはかなり立ち位置が違うとしても、なるほどと思えることがたくさんありました。理解と共感は違いますが、なるほどは、気づきです。
たとえば、「魔の季節」。ひとり者にとっては年に2回、魔の季節がある。ゴールデン・ウィークと年末年始である。世をあげて家族ムードに酔いしれるこのシーズンを、ひとり者は黙って耐える。そうそうそうそう、やってられるか~っ!
たとえば「寂しさに耐えられる限度」。人間の暮らしとは、身辺に人の気配や、ざわめきや、野暮用や、バカ話や、ゴミなどがあって、人としてのバランスがとれる。一人暮らしにはそういう“必要無駄”が無い。(ゴミはあるけど)、そうそうそうそうそう~っ、友達と「じゃねっ」と別れた瞬間、私は全く別人みたいに孤独な人になります。
たとえば「男女のちがい」。妊娠・出産は、誰が何と言おうと職業社会ではハンディ以外の何物でもない。継続して仕事を頼むなら、ハイミスか未亡人か出産年齢を過ぎた主婦に限る。本音、わ、わかります(・_・;)ただ私は言えない。上坂さんだから言えるのだと思いました。ちなみに私は、出産年齢を過ぎた未亡人だから、雇うなら好条件です。
そして「ひとりの行く末」。ものみな楽しく、明るく軽く回転する正月に、世の回転からはずれ、家族は側に無く、ひとりでいる、すなわち“老後”の姿そのもの。一人遊びを楽しめる能力と、心に負担がかからない程度のノルマを自分に課すことが、必要条件らしい。
頼むから死ぬのは年齢順にしてほしい。私が死んでも困る人はいない状況になったら、できれば余命を知りたいなどと思っていますが、痛いのも苦しいのも不便なのも勘弁してほしいし、やっぱり死ぬのは怖いから、ジタバタするでしょう。
理解と共感は、必ずしも一致しない。でも、違う立場の発言を聞くのは、とってもおもしろいものです。
どこかの時点までは、私は順調に立ち直ってきていると感じていたのですが、今はやっぱり無理だわと思っています。止まりました。それでも、人は笑うこともできるし、歌うこともできるものなのでしょう。
家族と疎遠でも寂しさを実感する事が無かったですが、それ以降は別人の「さびしんぼう」です
で…人と合ったり、長めの電話になるとそれまでの寂しさを取り戻そうと喋り倒して「なんかテンション高いね」と言われたり…
「じゃまた」の後の孤独が待っているからでしょうね。
世間の「魔の季節は」
♩華やいだ〜街にさらされても〜溶けてゆけない自分を見つめている
…ってところで気にしたくなくても勝手に感じます。
病気も「子供がまだ小さいから頑張る」とか「奥さん食わして行かなきゃならんし」という人と照らし合わせると
ん〜自分はせいぜい…働けなると疎遠な家族に迷惑がられる…くらいですが…
それでもやっぱり自分のためにいつものオバカな人生を生きてゆくわけです
「なんかテンション高いね」・・・クゥ~ッ・・・そうなんです。
「勝手に感じる」って、良い表現ですね。勝手に感じるんだから、特別に慰めてくれなくても良いけど、批判もしないでね、ってことでしょうか。
おバカな人生、生きていきたいです。
コメントありがとうございます。